海外脱落組のお気楽物理学者
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日本に帰ろう2
2013年02月20日 (水) | 編集 |
ヘルシンキ行きが決まり、再び欧州での生活が始まりました。

ヘルシンキの家は街の真ん中にあり、おいらの描いていた欧州生活そのものでした。

チェコは寮みたいな所に住んでいたのでおいらのイメージとはかけ離れていたんだよねえ。

ヘルシンキの最初の1年は色々苦しかった。

その理由の一つはボスとうまくやれなかったこと。

このブログでも何度も書いてるけど、とにかく変わった性格の人で、最初の内はそれが読み切れずにとても苦労しやした。

もう一つは大きな病気をしたことですね。

最初の年の10月ぐらいから、なんか背中がちりちりしたりして変だなと思っていたら、歩いているときに突然の呼吸困難。

道ばたにうずくまってしまったという。

周りのフィン人は冷たい視線を送るだけで誰も助けてくれない。

多分、アル中かなんかと思ったんだろうなあ。

んで、這いつくばるように家に帰って同僚に電話して病院にどう行ったらいいかとか聞き、次の日に病院に。

救急だったんだけど、ろくな診断してくれなくて更に悪化させてしまった。

で、ボスの紹介の医者が最終的に助けてくれたんだけど、原因究明とまではいかなかった。

これが後でまた痛い目をみる原因になるんだけどねえ・・・。

ともあれ、回復には数ヶ月を要して、1月ぐらいに大体復帰できたと思う。

2か月近く寝たきりだったこともあって、この時の精神的ダメージはかなりでかかったなあ。

2年目からは日本から新しいポスドクも来たし、ボスとの関係も良好になったので楽しくやることができた。

フィンランドの2~3年目がポスドク人生の中で一番楽しかったと思う。

研究も充実していたし、毎週末、友達の家でパーティーしたり、旅行をしたり。

この頃から日本のポジションはぼちぼち出していたかな。

今思えば時既に遅しなんだけど。



日本学術振興会のポスドク契約は2年で切れて3年目からはボスに直接雇ってもらいました。

それで幾つか応募も出していたんだけど、韓国と台湾からオファーが来ました。

どちらもポスドクだったんだけど、韓国が2+1年、台湾が2年ということで韓国のオファーを受けることにしました。

そのオファーを受けた後に、アメリカからもオファーが来ました。

ここはおいらのやっている分野の大家が居るところで一番行きたかった大学なんだけど、1年というオファーだったのと、韓国に返事をしてしまった後だったので諦めました。

ここも人生上大きな転換期だったなあ。

韓国を蹴ってアメリカに行っていたらどうなっていたんだろ?


で、やってきました韓国。

この国はとにかく肌に合わなかった・・・(韓国好きの皆様すいません)。

何が合わないって、生活環境と仕事のスタイルがです。

生活環境は欧州と大きく異なりとにかくきたない印象。

んで、仕事のスタイルはとにかく「やれるものをやれ」って感じで哲学も何もあったもんじゃない。

あんたら、なんのために研究してんのと?



上司と同僚には恵まれていたし、日本にもすぐに帰れる距離にあったのでそれなりによかったのですが、できるだけ早く出ようと考え始めました。

日本の公募には出しまくっていました。

とにかく日本に帰りたいと思うようになっていました。

海外生活に疲れてしまったのも韓国滞在の頃からかなあ・・・。

しかし、日本のポジションは出せども出せども面接に呼ばれません。

日本と韓国の間にはたかーい壁があるのです。

なんか賽の河原状態になっていたような気がする。



ここで、チェコの同僚のことを思い出して、チェコにポジションがあるか聞いてみました。

そしたらあるっていうので、とんとん拍子に赴任が決まって・・・。

折角日本に近くなったのに、また欧州に戻ることになるなんてとは思いましたが、ポジションは准教授相当だったので、横滑りで日本の准教授のポジションを取ることが出来るかなと考えました。

続く。


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